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最高裁判所第三小法廷 昭和52年(あ)1376号 決定 1978年6月06日

本籍

石川県輪島市河井町弐部一八二番地

住居

大阪府茨木市西駅前町一〇番二一〇号

会社役員

角田正一

昭和一四年九月一四日生

右の者に対する所得税法違反被告事件について、昭和五二年七月一二日大阪高等裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から上告の申立があつたので、当裁判所は、次のとおり決定する。

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人吉野和昭の上告趣意第一は、事実誤認の主張であり、同第二は、量刑不当の主張であつて、いずれも刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。

よつて、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 環昌一 裁判官 天野武一 裁判官 江里口清雄 裁判官 高辻正己 裁判官 服部高顯)

○昭和五二年(あ)第一三七六号

被告人 角田正一

弁護人吉野和昭の上告趣意(昭和五二年九月二二日付)

第一、原判決には判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認があり、これを破棄しなければ著しく正義に反すると認められるものである。

被告人には脱税の故意なく(第一の事実については自己の所得についての確定的認識なく、第二の事実については脱税そのものの認識がない)無罪である。

一、総説

(一) 租税犯においても、刑法第八条の適用から故意原則たる第三八条一項の規定が妥当するから、故意を必要とし、法律の特別の規定のある場合においては例外として過失の処罰せられる場合もあり得るというに帰する。

即ち、具体的には、「正当所得額に対する正当課税額の免脱、回避、或は課税権の正当行使の妨害、不能等の事実の認識、認容」が必要なのである。

従つて、如何に逋脱率が高い場合であつても、その事柄は犯罪の成立の成否にとつては事情的にも、心情的にも例外に置かなければならない。

(二) 本件における争点は、

まず、第一の事実については「被告人に昭和四七年度の自己の所得額の認識があつたか否か」であり、右を判断するには当時の被告人の商品取引等の実態を基礎にしなければならない。特に、その特殊性に着眼し、現に認識していたかどうかを検討しなければならないのであつて、認識し得たかどうか、認識し得なければならない(過失)ということではないのである。

次に、第二の事実につき、「正当所得額に対する正当課税額の免脱、回避の意思」があつたかどうか、具体的事案に則していうと「事後修正申告すべくいたか否か」ということである。

(三) 本件における被告人の商品取引、株式売買における特異性は、

まず、その取引における現況の把握をせずに、概括的、大ざつばな取引であつたということ、次にその現実の取引が文書によるものでなく電話一本による簡便なものであつたことである。

一般的に、商品取引、株式取引にたずさわるものは「危険の多い投機行為であるから、日々に相場の値動き、損益の変動は最大の関心事である。」からその取引量、損益を十分に把握しているのが通常とみられがちであるが、現実の右各取引はかような単純なものではないのである。

特に被告人は右各取引いわゆる「ドンブリ勘定」的にとられていただけであり、その日の値動き等についてもその係数をとらえていたものではないのである。右の点を十分に判断、認定の基礎において、被告人の当時の意思内容を検討しなければならない。

二、昭和四七年度の被告人の所得額について

(一) 昭和四五年度、同四六年度の被告人の所得申告等

(イ) 被告人は昭和四五年一〇月から中井繊維株式会社京都営業所の外務員として稼働していたものであるが、その間の所得申告については、その一切を同営業所長、米田耕耘にまかせていたものである。

これは一人被告人がこのようにしていたものでなくして、他の外務員についても同様であつたものである。

従つて、被告人としては、独自に自己の年間所得について常に把握しているものでなく、申告時に前記米田が作成したところの申告書に目を通して、自己が概括的に把握しているところに従つて「これぐらいであろう」ということで申告していたものである。

右は被告人も含め外務員の所得状態は米田が把握していたのであるから、具体的所得の申告については、いわば所長まかせにしており、余り関心を示さなかつたものなのである。(「当出張所には、外務員が一三名居りますが、これら外務活動の指導監督にあたる他、内部事務その他、営業の全般について責任を持つております」昭和四九年一〇月四日付質問顛末書問三)

右の被告人の所為がルーズであると批判されることについては甘受しなければならないであろうが、刑事責任の有無ということからは枠外の事項としなければならないはずである。

(ロ) 当時被告人の商品取引については、その名義、取引量においても十分把握がなされていなかつたもので、この点も前記米田にその一切をあまねいていたという状態である。(「角さんの取引量が段々増えて、この名義だけでは賄いきれないようになつたので、私が独自に人を頼んで住所を使わせてもらつた……」昭和四九年一〇月四日付顛末書問六、「角さんの利益金を一度に二千万、三千万とまとめて支払うのは目立つて……そこで私は角さんに断わらず、五百万円程度づつ当出張所から支出していたのですが、現金のまま保管するのは危険なので、私が勝手に仮名の普通預金口座を開いて預金していたのです。従つて角さんはこの預金のことは知らないはずです。」同顛末書問一〇、そして角さんからいつ何日に現金がほしいと申出があつたときには当出張所の女子職員と一諸につけて銀行までやり……」同)。

現に右米田耕耘の国税査察部における査察取調にあつて「商いが段々と増えてからは、私が独自で人に頼んで住所や名前を使わせてもらいました。これらの名義の商いが全部角さんのものというのでなく、実際に他人が商いしたものもあり、これらが混同しておりますので……」(昭和四九年一〇月二二日付質問顛末書)と供述するが如く、米田自身も十分にこれを把握していなかつたものなのである。しかも、米田においても、被告人に帰属する取引かどうかについては査察部の取調があつてから、始めて区別しえたものである。

従つて、被告人が自己の取引について十分の把握をしていなかつたこともうかがい知ることもできるものである。前記米田において、如何に被告人の取引を把握していなかつたの証左としては次の書証があげられるものである。

(1) 昭和五〇年三月七日付同人の供述書

(2) 昭和四九年一〇月四日付質問顛末書(1)

問一三、

「先程、仮名口座を説明する時に遠山きくを忘れていて迷惑をかけました。」

問一六、

「五百万円を二回に角さんに渡す利益金のうちから借りましたが、どの名義から借りたか覚えていません。」

(3) 昭和四九年一〇月四日付質問顛末書(2)

問四、

「中井証券遠山きく……のものは私が仮名を使用して取引したものです……」

(4) 昭和四九年一〇月二二日付顛末書

問二、

「今回査察調査を受けた段階で、私が依頼された株式取引について検討をしましたところ、角田正一名義の口座に、私自身が取引したものが含まれていることがわかりました。」

(5) 昭和五〇年二月六日付顛末書

「私としては京都出張所長として責任者の立場にありながら、角田さんが一体どれだけもうけていたのか記憶もうすれており……」

(二) 昭和四七年度の被告人の所得申告手続等

(イ) 被告人は昭和四六年末から、従前の中井繊維京都出張所から大阪本社の外務員として勤務しだしたものであるが、従前、自分自身で所得申告手続をした経験がなかつたため、と併せ、自己の住所が未だ京都に籍を置いたままであつたために、米田から申告手続をしてやろうとの申出をそのまま受け同人にこれを委ねたものである。

その後、米田から各事項記載の申告用紙の送付を受け、これに眼を通したところ外務員報酬についての所得申告のみであつたが、後述するように、商品先物取引、株式取引については利益がでていないと思つていたため、これが適正申告であろうと申告したものである。

(ロ) 昭和四七年度の商品先物取引については、主として静岡市水沼の栗田嘉紀と同様の取引をしており、同時期に右栗田が一七億以上の赤字を出し倒産するに至り、被告人もこのため、何億という借財をし、この穴うめに奔走したものである。当時被告人は生糸の商品先物取引を主としていたものであるところ、右被告人の先買に対して各商社がこぞつて「売り」にでたために、かかる事態になつたものである。昭和四七年度の上半期は相当利益をあげていたが、下半期には「建玉」を手じまえば赤字が出ると考えていたものである。

また、株式売買についても「ジヤパンライン」の売りを別にして、値下り株の取引が中心となつていたので、これについても赤字こそだせ、利益を得ているとは思つてもいなかつたものである。

(ハ) 被告人の商品取引等の特異性は次のようなものである。

一般的に言うと検察官が指摘する通り、「被告人は……この業界のプロである……こうした危険の多い投機行為にたずさわる以上日々の相場の値動き、損失の変動は、その最大の関心事であると共に営業上必須の知識でもあるから、被告人が自己の損失を全く把握できなかつたということはとうてい考えられず……」とみられるところであるが、被告人においても勿論商品取引相場の値動きについては把握するのに必死であるが、現実の値動きよりも、その斯業界商社の動きにたえず気をとられていたものであり、その取引も「買いささえ」等の現実の取引の所為に注意が向けられるのである。

例えば、商品先物取引にあつて、「売り」方と「買い」方とのバランスによりその日々の値動きが決るのであるが、単発的な取引を頭に置く限り、その日々の値動きに注意して、いくらいくら利益を得ていたとか、いくらいくら損失をしたとかの単純な計算により、その損益を把握しうるのであるが、自己が「売り」若しくは「買い」に走つた場合には、一回的、単発的なものではないだけに、「買い」ささえ等の事後取引を継続して行なうために日々の値動き自体も一つの流れとして把握するにとどまるものであり、結局「とけ合い」等の終局的な手じまいがあつてはじめて、「どれだけの損益」があつたかを知ることになるので、その間の「値動き」自体は概括的、大まかな把握しかあり得ないということになるのである。

また、本件各提出された証拠(書証)からも明らかである通り、当時の取引について、被告人においては、これをメモするとか、帳簿に記載するとかの所為はとつていない。これは、商品取引等にあつては「誰が売り手であるか、買い手であるか」ということは非常に重要視されるものであり、これを秘密裡のうちに処置しなくては相場をはかることはできないのである。従つて、各月度に「取引量」等についての書類が送付されても、ざつとこれに眼は通すものの、その場で破棄してしまうことが被告人においては慣例となつてしまつたものである。

(ニ) 右各述べたことについて、関係人の公判廷での供述は次の通りである。

(1) 大野昭(第四回公判)

「(取引は慣習上書面ですることはない)」

「(月々の残高照合書は被告人の要請で送付するものでない)」

「(被告人から特段取引状況、額数、その他明細について知らせてほしいということはほとんどない)」

「(一般的にも注文者の方で取引につき、その毎度に帳簿にあげることはしないと思います)」

「(被告人の取引の仕方は、ある程度全体的に取引状況を把握しているだけで細かなことはあまりチエツクしているようではなかつた)」

「(被告人は現在の自分の取引高とか取引回数とかをあまり意識せず、その場その場で相場をはつているようでした)」

「(代金決済についても銀行振込等で処理し、被告人が自らすることはなかつた)」

「(被告人が取引台帳の閲覧をしたことは一回もない)」

「(計算報告書を集計して、その収支が明らかになる)」

(2) 辻勝行(第五回公判)

「日々の取引の額数的、数量的なことは担当者である私にも把握できておりません)」

「(被告人が取引をどのように把握しているか)わかりません」

「(被告人から口座名の指示があるのでなく)こちらからいうて始めて(金銭を出入する)」

「(各口座をみてくれと収益がある残高があるとかないとかを担当者である自分の方で調べる)」

「(被告人は各口座の残高とか収益は把握していないようである)」

「(担当者から被告人に取引の数量、収益を知らせることはない)」

「(被告人が株の売買でどれだけの収益を挙げたとか云うことは大体の勘のようです)」

「(被告人は取引の数量とか収益につき無頓着のようであつた)」

「(金庫の中に一七〇万円程の現金が眠つていたのも被告人のほうで株取引について全然できていないということです)」

「(被告人が)ABCをみてくれと云われた場合そんな金額がないといつたこともあるのです。それで証券で迷惑をかけたこともあるということで……」「(被告人がどの名義を使つているかということは)ある程度わかります。こんな名前あつたなと、ある程度になつたら新しい口座を作られますからそう思つている間に又違う名前になつたりして……」

(ホ) 右被告人の公判廷での供述にもとづくと、被告人の昭和四七年度の所得額の認識は次の通りであろうと推認しうるのではなかろうか。

(1) まず、生糸の取引の暴落により、同年度の所得は外務員報酬にとどまつたであろうと認識していたということ。

被告人としては、四七年度前半において、ジヤパンライン等の株式取引で利益を得たという認識はあつたが、生糸の取引の暴落により得意先の栗田が一七億円もの赤字を出し倒産し、自己も当持所持していた株式をほとんど穴うめに奔走し、なおかつ負債をかかえなければならなかつたことより利益を得ているという認識は全くなかつた。

なんとなれば、当時としては被告人は、店において五億円以上もの損失を出し後押しを商社に依頼しなければならなかつた状況にもあり、かつ、前半期の利益でもつて購入した証券をほとんど売りにも出したということが強く印象に残つていたがためである。

(2) 次に被告人としては、従前の所得申告については、京都出張所の所長米田に全てを委ねており、米田にまかせておけば本社京都営業所関係も各元帳等を調査のうえ、同人が適正な申告をしてくれるものであろうと考えていたため、また米田において事前に右申告の内訳、額数につき問い合せもなかつたこととあいまつて、昭和四七年度の所得が外務員報酬の範囲であろうと考えたものである。そして、具体的手続において右のことが前提となつているため、米田から期限ぎりぎりに送付された申告書に同人が何の指示もせず、印鑑を押印して提出するようにとの言葉のままに所轄税務署に提出したものである。

(ヘ) 以上の通りであつて、被告人には脱税の認識はなかつたである。

被告人の捜査段階の各自供によれば、あたかもその所得額数を十二分に把握して所得の隠匿した如くであるが、右の国税局の査察調査後に明らかになつた事柄をもとに自供をせまられたものであり、その証左として、関係人の調べにおいても、前後供述や額数がくい違う点が多々あるものである。

被告人の自供も、押収書類、査察後作成された証拠(書証)をもとにしての調べが全てであり、被告人はかかる証拠(書証)をみせられるのは、右調べにおいて始めてというのがほとんどである。

このことは査察前の被告人の自供調書(昭和四九年九月二四日付)とその後の調書との大きなくい違いにおいても明らかなるところであり、査察前の自供においては、公判廷での自供と同じく、

「昭和四七年度分は、株式売買と商品先物取引は赤字で中井繊維(株)から受取る商品先物取引の委託手数料だけです。」

「京都出張所は私が以前勤務していた関係で米田所長に少しでも京都の成績が上るように、本来本社で扱うべき私の取引を京都へ廻しているもので、扱者コードが誰になつているか知りませんが、米田所長が全部知つているはずです。」「(先物商品取引の)昭和四七年度分は静岡市の栗田さんが赤字倒産した年で私の最大の得意先であり、私も栗田さんと同じような売買をしていましたから赤字だつたと考え、申告から除外しました。」「(株式売買)四七年四八年と赤字でした」と供述しているものである。

しかるに、査察後は、急転直下して、その冒頭から四七年度においても適正な申告をしていなかつたと供述しているもので、不自然きわまりない。

弁護人がここで付言しておきたいのは、本件の如き所得税法違反事件においての被疑者の査察取調における意識の問題である。

被疑者の段階において、被告人は本件が刑事事件に直結するという認識はさしてなく、国税局の取調も「事後適正な税を納入させられるについての調べ」ということが念頭にあるのであり、自己が本当にそれだけの所得を得ていたのならば、国税局の調査結果に基づいて自供してもいたしかたないという認識しかなく、当時自己が所得につき、いかように認識していたかという、本件での最大の争点である事柄の重大性については全く無頓着であるということである。

以上の諸点をも十二分に斟酌ありたい。

(ト) 被告人(第六回公判)

「(米田さんが京都)出張所では従業員の全部しめてやつてくれるのが大体恒例になつとるんです。」

「(米田さんが申告書を作成するについて個々具体的に被告人と当年度分の所得申告について内訳を検討することは)ない。」

「大体何時も(米田さんに)まかせきりになつていますから間違いないということで……」

「(昭和四七年度分の所得については京都営業所並びに本社の方も(米田さんが)調べてやつてくれているだろうと)思つていた」

「(米田さんの方で)申告書ぎりぎりに送つて来たから印をついて送つてくれよということですね。家についたらそれを出していました。」

「(米田さんは、当時被告人の所得関係を把握できておるから、それに基づいて調査をして適正な申告をしてくれているであろうという様に思つていた)」

「(昭和四七年度)前半、証券取引の方で儲つていましたけれども、後半はお客の倒産の時同じものをやつていましたので覚えとしては儲けがなくなつたという覚えでした。」

「(証券での利益につき)細かい数は分りませんけど、儲つた金で証券を買いました。」

「(栗田さんは)自分の持ち金をとばして約一七億の負債を控えたはずです」

「(被告人も生糸の取引においてその穴うめのため)買つていた株を買い値より大分安い処で売りました。(被告人が所持していた株の売れるものはすべて売りに出した状態です)」

「(証券の売却だけでは)一寸穴うめには足りませんでした」

「(その足りない額数は)あの時点で、四、五〇〇万は不足になつていたのです」

(三) 昭和四八年度の被告人の所得額について

(イ) 昭和四八年度の所得額については、被告人もある程度の認識をしており、右については適正な申告をすべきことは十二分に考えていたものであり、しからばこそ、従前他人にまかせきりにしていた所得申告を税理士に依頼したものである。

従前、被告人は前記のように自己の所得申告を京都営業所長米田にまかせきりにしており、常にその手続等につき十分の知識を持ち合わせていなかつた。

従つて、被告人が税理士甚田に申告を依頼した時期が申告期限間際であつたことも十分に理解しえるところである。

しかも、被告人は自己の所得の概括的な把握はできていても、その正確な数値を示す書類等は所持していなかつたもので、事後適正な申告をすべく一部の資料を持参して、右申告書作成依頼をしたものである。

(ロ) 起訴状記載の第二の事実の逋脱額等は、被告人が当初申告した数値に基づいてのものであるが、これは既に昭和四九年三月時において、被告人に右額での脱税の意思があつたことを前提としているようであるが、被告人としては事後適正申告を予定して、申告書作成を税理士に依頼したものである。

この点証人甚田も公判廷において、

「(四八年度の所得税申告の際、事後修正申告をしなければならんということは話に出ていました。)」

「(申告期限に充分な金額的なものが算出し得ないから「修正申告をしなければならないことは」被告人もいつておつた話です)」「(このことは自分も被告人に云つていた)」

「(事後適正な修正申告をしなければならないことは)被告人から聞いておりました。」

「(事後修正申告をすべく被告も準備するということでした。)」

と供述している。

このことからも明らかなように、当初は時間的に資料を全て検討して数額を算出し得なかつたことから、一部申告にとどまつたものであり、当初の提出資料も膨大なものであつたため、税理士の事務レベルで処理されたものである。この点も右甚田証人が、

「一応資料は膨大なものでしたから預つた資料を私の方で計算して数字を出して申告書の作成に至つた様ですけれども、その間が極めて短期間であつたと思います。」

と供述するところである。

検察官は「被告人が修正申告の資料として税理士に持つてきたのが、八月か九月であり、右の時期には被告人にも査察が及ぶことが予想された時期であること、被告人が当初税理士に渡した資料は手数料収入等職業上の収入に関するものであり、競走馬収入金、仮名商品取引分などが除外されていたこと」から、申告当初から脱税の意思があつたと主張する。

しかし、被告人が修正申告をなすべく準備をしだしたのは、当初の申告時からであり、これをもとに甚田税理士が作業を始めたのが昭和四九年七月頃である。

従つて、最終的に被告人が甚田税理士に全資料を手渡した時期が八月であることをもつて、右検察官のごとくきめつけるのは妥当のものとはいえない。なんとなれば、その資料は膨大なものにして、しかも一箇所に保管されているものでなくその回収には相当の時間を要するものなのである。しかも、被告人としても、右の資料回収に全ての時間をさくわけにもいかないので、自己の稼働時間のあい間を費しての作業なのである。

してみると、検察官のいう「被告人自身にも国税局の査察が入ることを恐れて」修正申告をすべく云々ということも的はずれのものとなろう。

また、被告人が甚田税理士に、右資料を交付したのは最終八月頃であるが右時期には栗田に対する国税局の査察も未だ入つていない段階であり、この主張も前提を欠いたものといわなければならない。

さらに、検察官は前記のように被告人が甚田税理士に手渡した資料が当初の段階では手数料収入等の職業上の収入に限られていたというがかようなことはない。その大半が右のような関係資料であつたが、商品取引上のものも含んでいたものがあるが、一部の申告になるので、せめて外形的にも右手数料に関するものだけを申告することの方が事務的にもくぎりがつくから、かように処理したにすぎないのである。

右についても甚田証人は

「(国税局の査察があるまでにある程度の金額、修正額は出していた)」

「(査察が入るまでは)一応私の方が出来る作業の限界というか、私の方で得られる数字であるというものが、そこで出てきたようです」

「(その額は)二億八、〇〇〇万円でなかつたかと思います」

「(大体)三億に近かつたように思います」

「(査察が入つたから修正申告した方がいいんじやないかということではない私の発想は当初の確定申告の延長線上にあるようです」

(ハ) 以上の諸点についての被告人の公判廷での供述は、

「(具体的に甚田税理士に任せたのは申告期間近であつた)」

「(その時所得金額をはじき出すための資料は持つていた)」

「(証券取引の書類を持つていつたです)(台帳の写なども)持つていつたです」

「(時間的な準備も十分出来ないということで四八年度の所得はきつちりと算出できなかつた)」

「(それは修正申告をするということで一応申告して、後で全部資料を集めて修正申告をしようということだつたのです」

「(修正申告をしようということは甚田税理士とも話しておりました)」

「(税理士からしなければならないということではありません)」

「(修正申告の資料回収には)すぐやつてくれといつても一ケ月、二ケ月で今やつていますということで、なかなか送つてくれないのもあるし、わざわざ取りにいつたこともある」

「(現実に修正申告の額数を税理士の方ではじき出したのは)八月の末か九月の始めです」

「(査察が入つて適正な額をはじき出したのではない)」

(ニ) 右にみたように、昭和四八年度の所得については、あくまでも適正申告をすべく準備し、その修正申告間際になつて、国税局の査察が入つたために、期限がさらに遅れて修正申告をしなければならない事態になつたものである。最後は、右につき弁護人が不自然と思える事柄につき附け加える。

査察取調の段階にあり、被告人の右弁解する事柄についての取調べが全くなされていないということである。

被告人の捜査段階における自供調書をみても、右は一切触れられていないのである。

本件の膨大な証拠資料が、国税局の手で、甚田会計事務所から押収され、しかも、右甚田税理士も、その間の事情を国税局において述べているにも拘らずにである。

なお、査察段階での同人の調べについては質問顛末書が作成されているが、本件証拠は提出されていないことを附言しておかなければならないであろう。

第二、原判決は刑の量定が著しく不当であり、破棄されなければ著しく正義に反する。

一、仮に、被告人が各所為につき、脱税の認識があり、有罪であるとしても、その犯情は軽いものであつて、以下の諸点をその刑の量定に当り十二分に斟酌ありたい。

(一) 被告人には脱税の確定的認識はなく、あつたとしても未必的認識、故意でしかなく、しかも意図的所為はみられないものである。

昭和四七年度、四八年度を通じて、その逋脱率は高いが、その申告手続等においての悪質はないものである。

これらはいずれも被告人のルーズさがその原因となつているものの、被告人において、脱税を意図して作意的に手を加えたということはない。

事犯全体を十分検討ありたい。

(イ) 本件各犯行は計画的のものでない。

被告人としては前記のように従前の所得申告については京都出張所の所長米田氏に全てを委託していたものであり、昭和四七年度の所得が外務員報酬の範囲であろうと漠然と意識していたものであり、仮にこれ以上の所得があつたとしても、そう多額のものではないと確信していたものである。

このことは国税局の査察取調の頭初においての自供でも明らかであり、本件被告人の所為を全体にながめれば肯首しうるところのものである。

また昭和四七年度の所得につき被告人は、平常時から、自己の財産の管理についてはその大方を前記米田に委ねていたことからもこれをうかがい知ることができるのである。

さらに昭和四八年の所得については前記のように、事後適正な修正申告を予定していたものなのであり、しかも、これらの点は昭和四九年五月の時点で税理士甚田に依頼済のものなのであつたのである。

(ロ) 以上の諸点を十二分に認定の基礎にする限り、本件各脱税が確定的故意のもとに、しかも、計画的になされたものでないということは明白になるものであり原判決はこれらの犯行の態様を十分には斟酌していない不当のものである。

(二) 既に修正申告も済んでおり、その税も税務署との話し合いにより、分割ではあるが、確実に履行していつているものである。

前記のように国税局の査察完了後速かに、修正申告をなしているものである。

右は弁護士側で提出せる書証により明らかである。

なお、検察官は、右修正申告においても一部しか納入されていないというが、右は被告人が履行し得る最大限の範囲で国税局と話し合い、分割履行の約定をしたもので、決して、履行し得るのにしないものではないのである。(年額金五、五〇〇、〇〇〇円也の分割金支払)

しかも、右は履行確保のため、差押等の処置は全てされているもので、その履行は全うされること確実のものである。

(三) 被告人には再犯の虞れはない。

被告人は昭和四九年度からは全て税理面を税理の専門家である税理士にまかせ、以後現在に至るまで、適正な申告をし納税しているものであつて、本件の如き所為を繰り返すことはないものである。

本件の如き各所為は、前記のように被告人のルーズさから生じたものであり、右の如き、処置を完全にしている限り、再び生じるものではないと断言できるところであろう。

この点は証人甚田もかように供述するところであり、被告人も右の事柄については言明するところである。

(四) 被告人には現在みるべき資産もない。

本件により、被告人はその資産の全てを差押えられ、もしくは失つたもので、現在の収入は修正申告の分割金を支払えば、自己の生計を維持するのがやつとの思いであり、この点は十二分に斟酌ありたい。

以上

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